タチカワの前身、文具界の創立
株式会社立川ピン製作所は、1935年(昭和10年)に創業。鋼ペン先、ピン針、ゼムクリップを製造するメーカーとして発足しました。
その前身は、文具界という文具店にさかのぼります。創業者の立川泰之助は、旧財閥の泉屋(旧・住友 現・住友グループ)の生まれ。当時の名は、泉屋新造といいましたが、わずか10歳の幼少にして改名し、泉屋から立川泰之助になりました。
泰之助は、白水堂洋品店に奉公に出、一生懸命に学び、1897年(明治30年)に23歳で独立。当時、文具を商う店は「筆屋」と呼ばれていましたが、泰之助が日本で初めて文具店という名を考案し、自らの店に名付けました。
ちなみに当時は、現在の洋品雑貨店が文具を扱っており、筆、墨、硯や和紙等を商っていた。泰之助は、大阪の小売店ではまだ誰も扱わなかった鉛筆、万年筆などの舶来文具を販売したと伝えられています。その後、泰之助は1909年(明治42年)10月に文具界という洋の東西を問わない幅広い品ぞろえの文具総合店を創立しました。
文具をスタンダードな存在に
創立後間もない時期に第一次世界大戦(1914~1918年)が勃発。輸入文具が極度に不足する事態を迎えました。当時の資料では、1グロス60~80銭の舶来ペン先が3円から5円になるという状態だったといいます。
この困窮に、1915年(大正4年)、国産文具の権威高揚とアピールのため、心斎橋の本社社屋を会場に文具界主催の「国際文具展覧会」を開催。現在の文具オフィスフェアの前身的催しを生み出しました。
3年後の1918年(大正7年)には、大阪全業界人が株主となり、四世福井庄次郎氏(福井商事、後のライオン事務器の社長)を社長、当時の有力者を重役として日本ペン先(株)が設立されました。
間もなく泰之助が社長となり、後の立川ペン先、エレガントペン先が誕生。大阪の有力小売店で組織する親睦団体、研精会のリーダーとして共同仕入れ、共同販売等を行うことで、業界の活性化へと結びつけました。
さらに文具界主催で第1回関西文具売立会を岸松館で開催。これは業界初の全国見本市という快挙で、文具界の歴史にいまも刻まれています。同じく、第1回東西共益会合併市が大阪の名月楼で開かれましたが、大阪のすべての準備は立川泰之助の手で運ばれたとのことです。
チャレンジスピリットで業界の雄へ
1925年(大正14年)、文具界の心斎橋本社は、大胆な店舗改築を行いました。現在は老舗とされる大手百貨店すら、土間式商法を営んでいた当時に、画期的な洋風の店舗を建築。店内には大阪有力卸および東京メーカー製品を網羅し、地方業者の仕入れに大いに役立つことになりました。
そして、第二次世界大戦後、立川ペン先(株)の代理店は全国6000店にまで拡がり発展しました。「タチカワペン」の名でペン先のシェアーは日本の6割を超えることとなり、日本を代表するペン先メーカーとしていまを迎えています。
時代のニーズに応えて多角化を促進
高度経済成長期、あらゆる業種において業務革新が起こる中、株式会社立川ピン製作所も、その流れに応えるように製造ジャンルを開拓。ピン針(ゼムクリップ)、ボールペン、ステープル、スチール家具、等の製造を開始しました。
製品に対しても、メディアを通じてさまざまな発信を行ったため、タチカワの名は全国に広がっています。現在では禁止されていますが、競走馬「タチカワボールペン号」は、日本で初めて競走馬に商品名を付けたことや、落語家立川談志氏起用のCMでお馴染となった、「俺・・たてかわ、これ・・タチカワ」では、タチカワボールペン、タチカワ学習机などを宣伝しました。
そしていま、私たちは創業時からの根幹のステーショナリー事業、ペン先の加工技術を応用したファスニング事業およびパッケージング事業を軸に、国内外に自社の製品をお届けしています。